Hamilton Grade 985

久方振りに入手したアンティーク時計のご紹介。

前のページにもどる

しばし時計趣味から遠ざかっておりましたが、この度、久方振りに新たな一品が手持ちに加わったのでご紹介します。

アンティークでは初めての腕時計、Hamilton Grade 985カスタムです。

入手にあたり、この機械がどういう背景から誕生したのか、調べてみました。

資料収集にあたっては、アンティーク時計のレストアを専門に行っているマサズパスタイムのご協力を頂きました。


ハミルトンの出遅れ

時は、第一次世界大戦の真っ最中。

この戦争は、数々の革新と新技術が投入された戦争でした。戦車、飛行機、潜水艦から化学兵器に至るまで、現代に通じる『兵器』の祖先が次々と誕生しましたが、そうした革新のひとつに、腕時計の存在がありました。

「戦争ん時、腕に時計を着けるんは女々か?」

「名案にごつ」

そんなやりとりがあったかどうかは定かではありませんが、一瞬が生死を分ける戦場では、いちいちポケットから取り出さねばならない懐中時計に対して、腕に目を走らせるだけで時刻を知ることができる腕時計の優越性は明らかであり、そうした戦訓は「腕時計は女性の装身具」というそれまでの価値観を覆していきました。

一方、1917年4月6日に参戦することになったアメリカでは。

ウォルサム、エルジンと並び「三大メーカー」とも称されるハミルトン。しかし、同社の男性用腕時計への動きは鈍いものでした。すでにこの市場では、ウォルサム、エルジン、グリュエン、イリノイといったメーカーが評価を築きつつあり、ハミルトンは明らかに出遅れていました。何故か。

理由はいくつか挙げられますが、その最大のひとつに、ハミルトンがハイグレードな鉄道時計のメーカーとしての評価を確立していたがゆえに、腕時計が懐中時計の市場と共食いを起こす可能性を懸念していた、というものがあります(実際に、そうした懸念を記したセールスディレクターの書簡が存在する)。

しかし、大戦にアメリカが参戦するに至り、ハミルトンは腕時計に対する見方を改めます。すなわち、女性的で、懐中時計の市場を荒らしかねない代物から、「塹壕」という新市場を開拓するカテゴリへと。

こうして、1917年4月、遅ればせながらハミルトンは男性用腕時計市場への参入を決断しました。


最初の2グレード

さて、男性用腕時計市場への参入にあたり、どのような製品を投入すべきか。

それは鉄道時計よりもはるかに小型で、かつハミルトンの品質基準を満たす高水準なものでなければならず、それでいて経済的に生産できる必要がありました。さらには、参入の遅れを挽回するために、迅速に投入する必要にも迫られていました。

当時、ハミルトンのラインナップにあったムーブメント、例えばGrade 988は、女性向けペンダントウォッチに組み込むための6/0サイズ(25.40mm)のムーブメントでしたが、小型でこそあったものの女性的に過ぎ、また高コストな構造、仕上げを伴うもので、要求には合致しないものでした。

そこでハミルトンが開発・投入したのが、Grade 983と985という2つのムーブメントです。両者はいずれも0サイズ(29.62mm)のムーブメントでした。


NAWCC会報から引用。ハミルトン0サイズのプロトタイプ。

この0サイズ・ムーブメントのプロトタイプは、1908年にシャトレーンウォッチとして誕生した、スイスC.H.Meylan社の17石ムーブメントに倣った設計です。


実際に並べてみると、Grade 983,985はMeylanのムーブメントに酷似しています。

しかし、実際にはハミルトン独自の設計となっており、アメリカ規格の0サイズのケースに適合します。これによってケーシングに関わる労力とコストを省き、ハミルトンは実に二ヶ月という短期間で最初の出荷へと漕ぎ着けることができました。それでいて、ムーブメントの品質は非常に高いものだったのです。


C.H.Meylanのムーブメント。
Hamilton Grade 983
Hamilton Grade 985

元々アメリカ向けにも輸出されていたスイスの高級機であったC.H.Meylanの設計を基にし、かつ0サイズという規格に合わせてケーシングのコストを省略したことで、品質の高い男性用腕時計ムーブメントを短期間で開発・投入することができたわけです。

1917年6月27日の最初の出荷は、全国24人の販売業者に47件。1917年の生産数はGrade 983が306個、985が204個でした。外装は革紐と純銀製の飾り紐が取り付けられた丸型ラグ、ラウンドの銀製ケースで、販売価格はいずれも35ドル。どういうわけか、17石の983と、19石の985が同じ価格で販売されていました。


短命に終わった0サイズ腕時計

しかし、0サイズ腕時計の生産は長くは続きませんでした。

腕時計の低価格化、小型化が急速に進行したためです。

また、マーケティング上の迷走もあり、Grade 983は1917~18年の間に1,178個、Grade 985は1917~19年の間に571個の製造に留まりました。より設計を合理化した後継のGrade 981(販売総数2,097)を含めても、0サイズの「腕時計」が製造されたのはわずかに六年間。

1922年には、皮肉にもかつて「小型すぎる」として採用を見送ったGrade 988と同じ6/0サイズの新ムーブメント、Grade 986がその後釜となり、腕時計はさらなる小型化、薄型化へと突き進んでいくことになります。


Hamilton Grade 985のムーブメント

と、概略を掴んだところでムーブメントを見ていきましょう。


ムーブメント概観。サイズを別にすれば懐中時計の高級機そのもの。

0サイズということを除けば、その構成はハミルトンの高級懐中時計そのもので、鉄道時計としての要件も多くを満たす仕様となっています。

ジュエルド・モーターバレル
香箱にホゾを、地板と角穴車に受石を配したアメリカ懐中時計特有の機構。動力の発生源である香箱の回転を円滑にすることで効率・精度の向上を図る。
ゴールドトレイン
歯車に金の合金を使用。より平滑な歯面を得ることで精度向上を図る。2番車のみの場合、2~4番全てが金の場合がある。
ハイライズ
“Rised Setting”とも。受石を止めるシャトンの背を高くし、高級感を演出する。
ダブルローラー
天真に取り付けられるローラーを、インパルスローラーとセイフティローラーのコンビネーションとし、振り石がアンクルから外れないようにしたもの。
マイクロレギュレータ
レギュレータ(緩急針)を微調整し、かつ動揺しないようにする機構。スワンネック型のほか、様々な形がある。
オーバーコイル・ヘアスプリング
いわゆる巻き上げヒゲ。ブレゲヒゲとも。螺旋状のヒゲゼンマイの収縮を同心円に近付けるためにゼンマイの端を巻き上げ、内端を特殊な曲線(Terminal Curve)に整形する。
バイメタル切りテンプ
二層の金属を貼り合わせて作られた切りテンプ。金属の膨張率の差を利用して温度変化による影響を補正する。
ミーンタイムスクリュー
テンプに取り付けられた微調整用のネジ。慣性モーメントを増すための錘であるチラネジとは役割が異なる。

Grade 985の輪列。面取りされた金歯車(2~4番)が美しい。

受板の仕上げは同社の時計によく見られる、スイスのコート・ド・ジュネーヴとはまた違った雰囲気の縞模様。

レストアに際して施したネジの青焼きがアクセントとなり、全体が引き締まって見えます。

ただ、受板の形状やクリックの方式には基になったメイランのムーブメントの影響が色濃く見られ、アメリカ時計でありながらスイス風のテイストも感じさせるという、珍しい姿となっています。


外装:21世紀仕様のカスタムウォッチ

シルバー製の腕時計ケース。グラスバック、防水仕様。

ケースは往時のラウンドあるいはクッション型のものではなく、パスタイム独自開発のカスタムケース(シルバー製)です。「0サイズ懐中時計を搭載できる腕時計ケース」として開発され、ムーブメントをいつでも鑑賞できるサファイアグラスバック仕様でありながら、防水機能まで備えるというこだわりの一品。

100年前のアンティークが、安心して常用できる腕時計として21世紀に蘇ります。


文字盤:特製カスタムダイヤル

本来の文字盤ではなく、特製の文字盤が取り付けられています。

こちらもシルバー製ですが、特筆すべきはギョーシェ彫り(Guilloche)でしょう。

ギョーシェ彫りは、金属製文字盤にエンジンターンと呼ばれる細かい幾何学模様の繰り返しを彫ることで装飾を加えながらも光の反射を抑え、相対的にインデックスを見やすくする技法です。


ここまで拡大してやっと分かる細かい模様。セコンド部分の直径は実際には6~7mm程度。
通常のギョーシェ彫り(上)と、今回の試作品(下)。

手作業、あるいはローズエンジンという機械で模様を彫り込んでいくわけですが、このダイヤルは試作としてパターンのピッチを約三倍程度稠密にしたものだそうです。干渉光となった反射が放射状に見え、シルクにも似た艶のある、それでいて邪魔にならない輝きを湛えます。

その他、インデックスや数字は手彫りで仕上げられ、実に手のかかった一品となっています。

これに、プラム色に焼きの入ったスチール針が組み合わせられています。


まとめ:限りなく懐中時計に近い腕時計

まとめ:限りなく懐中時計に近い腕時計

ハミルトン最初の0サイズ男性用腕時計として作られたGrade 985。

ほぼ最高級と言ってよい仕様に妥協のない仕上げは、高品質な鉄道時計で評価を築いた同社の矜持が感じられる一品です。

腕時計のムーブメントは、えてして小型化・薄型化、そして低価格化のために合理化が進み、往時の懐中時計のような「贅を尽くす」というコンセプトとは相容れないものがあります。しかし、黎明期のわずか三年間だけ製造されたこのムーブメントは、まさに「懐中時計のクオリティで作られた」腕時計であるといえるでしょう。

その一方で生産数はごく少なく、また大恐慌の際には少なからぬ数がケースを鋳潰されて失われたとも言われています。

レストアとカスタムによって100年を超えて蘇ったこの時計。いつまでも大切にしたいものです。



この記事に付けられたタグ
 アンティーク時計

前のページにもどる