機械式時計の魅力とは
何故、機械式時計なのか?
近年は電波時計も捨て値で手に入るし、携帯電話ですら、GPSから取得した誤差1/1,000,000秒の時刻を表示できます。これらは蛮用にもよく耐え、メンテナンスもほぼ不要、そして代わりはいくらでも手に入ります。
ただ精密・正確な計時装置を安く求めるだけならば、敢えて高価な上に精度で劣り、しかも扱いに気を使わねばならない機械式時計を選ぶ理由はありません。
宝飾やデザインを重視するとしても、そのムーブメントには機械式よりもクォーツの方が一般に適しています(小型軽量でメンテナンスもほとんど要しないため、デザイン上の自由度を確保し易い)。
それでもなお敢えて機械式時計を選ぶとなれば、その理由は多分に情緒的なものになるでしょう。
巷間に機械式時計を愛好する人間は数多く、その理由もまたその人間の数だけ存在するでしょう。あるいは、理屈を超えた直感。あるいは、哲学的な命題。
私個人としては、その理由を二つ挙げます。
一つは、電子回路とは違い、あくまでも人間の目に見える機械仕掛けでその精度や機能を追求するという英知の象徴として。
一つは、世代を超えて継承されることによる、持ち主の歴史あるいは人生そのものの象徴として。
確かに機械式時計は、その計時の精密さにおいてはもはや最先端の存在ではありません。しかし、その「正確さ」においては今なお決して何かに劣るものではないのではないか、と思うのです。
ゼンマイを巻き、時間を合わせてやらねば正しく動き続けることができない機械式時計。しかし、それは決して煩雑な手間などではなく、時計が人を必要とするということの表れ。そこでは、時計が人を動かすのではなく、人が時計を動かすという絶対的な関係が守られています。
そして機械式時計は時に調子を崩し、持ち主を喪えば鼓動を止めます。しかし、それが時を超え、世代を超えて新たな持ち主を得ることができれば、再び時を刻み出します。
主の生命は終わるとも、主の時間は終わらない。
その振る舞いは、ある意味では単なる計時装置の枠を超えて正確に「人間の時間」を刻んでいるとはいえないでしょうか?
それを踏まえた上で、「時間と戦うための兵器」ではなく「時間と向き合うための道具」として見たとき、機械式時計には今なお色褪せることのない魅力を感じることができると思います。
だからこそ、私は今、機械式の時計を手にしているわけです。