Waltham Cresent St.
アメリカ懐中時計がすっかり気に入り、処構わず買い漁っていた頃にネットオークションで落札した品です。
「銀時計を持っているなら対になる金時計も欲しい」と思っていたところ、余計な装飾もないプレーンな14金無垢のハンターケースのこの品に目を着けて落札しました。ムーブメントはウォルサム製のクレセント・ストリートです。
ウォルサムは特にグレードのラインナップが豊富なメーカーで、16サイズでグレード名を冠するものだけでも、リバーサイド・マキシマ(23J)を筆頭に、ヴァンガード(23J)、クレセント・ストリート(21J)、リバーサイド(19J)、ローヤル(17J)、P.S.バートレット(17J)などが挙げられます(プレミアなどは一寸置きますが)。この他、7~17石までの、グレード名を冠しない並級品まで、実に多様です。
クレセント・ストリートは、そんな数あるウォルサムのグレードの中でも比較的上位に位置づけられたムーブメントです。最高21石までの仕様で、(ダイヤモンドを含む)23石というヴァンガードやリバーサイド・マキシマには一歩譲るものの、鉄道時計としての公認も受けています。
さて、喜び勇んでオークションに飛びついてはみたものの、実際には色々な問題がありました。このため、今回の記事はコレクションの紹介というより、レストア奮闘記のような様相を呈しています(苦笑)。好きな人には面白いネタではあると思うので、お楽しみ頂ければ幸いです。
実はケースが…
ケースは14金無垢のハンターケースです。
5時位置にある当たりを別にすれば悪くないケースかな、と思っていたら、どうも蓋の閉まりが悪いのに気付きました。閉めようとすると蓋が斜めにズレるため、蓋をきちんと合わせないと閉まらない上、ちょっとした衝撃で蓋が開きます。
調べてもらうと、何と蓋の裏側、ヒンジに沿って大きなクラックがあり、これのせいで蓋にガタつきが生じていました。
この結果、カバーヒンジのカバーを取ってピンを抜き、蓋を分解してからクラック部分をロウ付け。ロウ付けの熱によって変色した部分を色上げしてから再度組み立て、ピンをカバーしていた部分を元通り金で埋め直すという大手術となりました。
不幸中の幸いだったのは、ヒンジのパイプ部分を完全に取り外す必要がなかったこと。パイプの取り外しと付け直しが加わると、さらに費用が跳ね上がるところでした。
修理風景の記録があれば良かったのですが、作業タイミングの都合から、残念ながら画像は修理後のもののみです。
ムーブメントの汚れ
整備もなしに放っておかれたムーブメントでは、揮発や変質によって潤滑油が失われ、その上ゴミやホコリが入り込みます。
この時計も潤滑油はほぼ失われており、軸受け部分にはゴミとホコリが大量に入り込んでいました。洗浄の前後の写真を比べてみれば、その差は一目瞭然でしょう。
さて、汚れ自体は問題ではないのですが、汚れたままで時計を動かすことには問題があります。
軸受けにゴミやホコリが入り込んだ状態で時計を動かすと、それによって軸受けが傷つくのです。キズは歯車の抵抗やガタつきの原因となって時計の精度を落としますし、進行すれば軸自体の磨耗・変形となり、最終的には時計自体が動かなくなります。定期的に適切な整備が行われていれば回避できるものですが、手遅れになると大手術が必要になったり、最悪の場合は修理不能にさえなるという、成人病じみた恐ろしさがあります。
この時計でも、既に磨耗の兆候が見えていました。幸い軽度なものだったので、磨り減り始めた部分がガタとなって症状を進行させないよう、研磨仕上げをするだけで済みました。
古い時計はサビとの戦い?
この時計の最大の問題は、各所に発生していたサビでした。
秒針や微動緩急調整装置といった外部から視認できる部分のみならず、ヒゲゼンマイや受板の留めネジといった分解しないと分からない部分まで、あちこちにサビが点在していたのです。
サビを除去し、必要に応じてサビ止めの処置を行いましたが、最善は予防です。「サビは金属の癌」という言葉もあるようで、放置すればサビはどんどん広がって部品自体が使い物にならなくなりますし、一度サビが発生すると、仮にそれを除去したとしても完全に元通りにはなりません。
特にヒゲゼンマイのサビは、ヒゲゼンマイの特性や性能を変動させる可能性があり、最悪の場合はヒゲゼンマイ自体を交換する必要があります。今回は幸い、サビの除去後にテンプの重さやバランスを調整することで対応する事が出来ました。
時計にもカビは生える
「時計にカビ」と言われてもピンと来ない方がいるかも知れませんが、これが生えるのです。
高温多湿の環境に永くさらされると、時計といえどもカビが生えます。特に日本の気候では要注意。カビ自体の除去は可能ですが、カビが頑固に根を張った場合、その根の跡が残ってしまう可能性もあります。
この時計では、文字盤の表面に黒カビ、アンクルに白カビが付いていました。幸い、これらは洗浄の過程で無事落とすことができました。
ゼンマイの交換
アンティーク時計では、ゼンマイには長らく鉄が使われてきました。こうした鉄製のゼンマイは経年劣化によって弾性を失い、トルクの不足や駆動時間の短縮を招きます。
そこで、ゼンマイは現代の新品に交換します。新しいゼンマイはニバフレックスという特殊鋼で出来ており、形状記憶性によって弾性を永く維持できると共に、切れにくいという特長があるそうです。
さて、ゼンマイを収める香箱ですが、この時計は21石ながら、23石の機械と同様に香箱に宝石を配するジュエルドバレル仕様となっています。この時計の場合、23石の機械との差はアンクル受石の有無です。
なお、ウォルサムの時計に多く見られるこのジュエルドバレルは、二つに分かれた香箱真がネジ込みによって組み合わせられているのですが、この構造を知らずに無理矢理分解しようとして破損する例が意外と多いそうです。
その他
大抵の場合、アンクル式(クラブトゥース型)脱進機のテンプには、振り石でアンクルを動かすローラーの他、誤作動を防ぐためにセイフティローラーが備えられています。
この時計では、そのセイフティローラーの一部にクラックが見つかりました。カシメによって取り付けられた際の力に耐えられなかったようです。
完璧を期すならば交換すべきではありますが、クラックに干渉されて損傷する部品がないこと、セフティローラー自体にはガタもなく機能を果たしていることから、敢えて手を付けずとも影響はない、と判定され、このまま使用する事になりました。
組み立てと調整
こうして、洗浄や修復を終えた各部品を再び組み立てていきます。
注油し、組み立てられた機械は歩度(進み/遅れ)を測りながらさらに調整を加えていきます。歩度の測定にはウィッチ(歩度測定器)を用いて調整していきますが、最終的には姿勢を変化させながら実際に何日か動作させて実測します。
性能(≒歩度)の目標は、その時計の設計や機械の状態によって異なるそうですが、この時計は鉄道時計と機械的な仕様がほぼ同じであるため、これに準じます。すなわち、「72時間で6秒以内」かつ「一週間で30秒以内」という鉄道時計の規格を目指して調整が行われます。これは、現代においても充分に実用となる性能と言えるでしょう。
まとめ
そこそこの価格で落札した時計ではありますが、実用可能な状態まで整備するのにかかったコストは決して安いものではありませんでした。
また、「動く=問題なし」ではないことにも注意が必要です。この時計には上記のように様々な問題がありましたが、ゼンマイを巻けば動きましたし、平姿勢で安置した状態で、歩度も一日あたり一分弱程度でした。知識のない人を相手に「100年前の機械式だからこんなもの」と強弁すれば信じてしまうかも知れません。
隠れた部分のサビやカビ、瑕や破損といったものは、オークションの出品写真だけで見抜くのは至難の業です。特に、出品者が意図的にそうした瑕疵を見せないようにした場合、まず見抜くのは不可能でしょうし、たとえ取引してから気付いても、「ノークレーム、ノーリターン」と言われるのがオチです。
オークションにはオークションの楽しみがあり、一概に「オークションは駄目」と言うつもりはありませんが、手を出す以上、そこにあるリスクはきちんと理解しておく必要があります。そして、落札品は必ず信頼の置ける職人にその状態を確かめてもらうべきでしょう。問題のある状態で常用すれば遠からず動作不能になりますし、観賞目的であってもカビやサビを放置するのは得策ではありません。
かくしてレストアを終えたこの時計ですが、最終的には懐中時計の布教として(笑)会社の元後輩にほぼ原価で譲り渡しました。これでもショップで購入するよりは大幅にお買い得ですし、中身についても保証できる状態になっていますから、そう悪い話ではなかったと思います。私個人は金銭的に損も得もしなかったわけですが、こういう知識と知恵の分は儲けさせて貰ったかな?