それは「訓練された無能力」の賜物?
仕事の上で、どうにも我慢のならないもののひとつが、MS-EXCELで描かれた(誤変換にあらず)方眼紙状のモノを「ドキュメント」と称することです。そう、正方形に整形されたセルがLEGOよろしく結合され、幼児がイタズラで貼ったシールのようにオブジェクトが貼り込まれ、縦横無尽に罫線の走るアレです。
こんなものは「ドキュメント」の名に値しません。そんなものを得意げに振り回す時点で、自らの無能と愚劣さ加減を喧伝しているに等しいと知るべきです。
「ドキュメント」の本質は情報です。情報を構造化、体系化して必要な時に必要な情報へ迅速にアクセスできるようにし、取得した情報の再利用によって無駄を排することにこそ意味があります。しかし「EXCEL方眼紙」はそれを歪め、自ら望んでその本質を破壊する最低・最悪のバッドノウハウであると私は断言します。
その根本的な問題は、「見てくれが情報を規定する」という主客転倒にあります。その論理的な構造を無視して表面的なレイアウトと融合させられた情報はメンテナンスのコストを過大にし、情報機器を利用することによる最大の長所であるはずの「自動化」「検索」「再利用」を妨げます。
その結果として生まれるのが、「穴を掘って埋める」という刑務所の労役にも例えられる無駄手間の塊です。下記に挙げる例は、仕事で「EXCEL方眼紙」に遭遇した人ならば一度ならず覚えのある事ではないでしょうか?
- 方眼紙のサイズをはみ出すというだけの理由で「枠に入るように情報を切り詰めろ」と言い出す(そして辻褄合わせに数十分)
- 自動で打たせればいいインデックスやページ番号をわざわざ手書きで書き込ませる(そして間違える)
- 中身の検索ができない(テキストオブジェクト万歳!)ので、メンテナンス対象の電子ファイルを探すために紙のファイルを人力で探す(そして修正が漏れる)
- 「雛形」のコピーによって作られるため、一度間違いが混入すると全てのコピーを一つ一つ手で修正しなければならない
一回こっきりの作り逃げならまだしも、こんなものをメンテナンスさせられるのは悪夢以外の何物でもありません。愚劣の極みと言えますが、実はこれとて枝葉末節に過ぎません。
「見てくれが情報を規定する」という意識がもたらす最大の害悪は形式主義です。出力物(つまり紙)の見てくれにしか関心がなく、最も重要な「情報の正当性」のチェックをおざなりにするのです。それでチェック漏れをした際の言い訳が、「量が過大で手が回らなかった」なのだから笑止千万。そんなものは、上っ面だけの形式を取り繕うために一の仕事を十どころか千にも万にもしてなお省みることのない無能と愚劣さがもたらす当然の帰結です。効率的に「情報」にアクセスし、コントロールする手段を持ち合わせていれば、情報量の多寡など程度問題に過ぎません。
さて、どういう訳か大企業や官公庁というのはこの「方眼紙」が大好きです。わざわざ「方眼紙」を手っ取り早く扱うためのマクロやノウハウまで個々に(そう、あくまで個人のノウハウとして)蓄積しています。本人はそれでうまく仕事が出来ているつもりなのかも知れませんが、それが乗数的に蓄積される無駄と非効率を撒き散らし、関わる者全てにそのツケを回すとんでもない害悪であるとは思いもしないようです。
転倒した主客と現実との乖離が生み出す巨大な無駄と非効率は、「訓練された無能力」とでも呼ぶべきものです(*)。そして、その申し子たる「EXCEL方眼紙」は今日も日本中で増殖を続けているのです。駄目だこりゃ。
願わくは、こんなものにはもう金輪際関わらないで済みますように…(嘆息)
なんとなく語感からそのまま書いてしまったけど、「訓練された無能力」とは、本来「規則に固執するあまり状況の変化に対応できない」という官僚制の逆機能を説明する社会学の言葉なんだそうで。
官僚的という意味では合っていますが、ここで使う意味としては、「間違った事を延々と続けて取り返しが付かなくなる」という意味でフォン・ゼークトの「頭の悪い働き者」という言葉のほうが適当かも知れません。まあ、そういうニュアンスだということで。全く本質的でない事について延々と無駄な努力を一生懸命積み重ねる愚かさ加減が如実に現れていれば幸いです。