Jun.23, 2006

プロジェクトχ:逆境を跳ね返せ 信頼の時刻・公認鉄道時計誕生秘話

[American PocketWatch]

19世紀末のアメリカ。鉄道の運行は時間との戦いでした。各地に根付くローカル時間、不正確な時計。そして運命の大事故が男達の生命を奪ったとき、一人の男が立ち上がります。

今回はプロジェクトχ(カイだよ、カイ(w)、「逆境を跳ね返せ 信頼の時刻・公認鉄道時計誕生秘話」をお送りします。
(もちろん、朗読はアノ方のようにお願いします(笑))

Prologue――アメリカ鉄道業界の苦悩

19世紀末。1920年代に最初の蒸気機関車が走ってから60年あまり、アメリカの鉄道は目覚しい発展を続けていた。

1852年、シカゴ=ニューヨーク間開通。1869年にはシカゴ=サンフランシスコ間が開通。大陸横断鉄道の完成である。その後も続々と大陸横断ルートが完成。鉄道は運河に替わり、たちまち物流の主役の座に躍り出た。

しかし、鉄道会社には大きな悩みがあった。地方時の存在である。

当時、アメリカの各都市は自分の町の地方時を採用していた。そのため、列車は駅に止まっても正確な時刻が判らず、車掌が持つ時計だけが頼りであった。乗客もまた、地方時ではなく、鉄道会社の鉄道時間を頭において列車を利用しなければならなかった。不便だった。

そんな中、正確な時を告げるひとつの街があった。オハイオ州クリーブランド。この街は、1890年からワシントン天文台の標準時を採用していた。そこには、ある男の存在が深く関わっていた。クリーブランドの時計宝石店の主、ウェブスター・クレイ・ボール(Webster Clay Ball)である。

正確な時にこだわる男――ウェブ・ボールの半生

ボールは1847年10月6日、オハイオ州フレデリックタウンに生まれた。農場で育ち、町立の学校に通う普通の少年であり、学校の外では同年代の少年達同様、農場の手伝いをして過ごしていた。

やがて成人したボールは職探しを始めた。まず彼が志したのは歯医者であった。ボールは早速歯医者の下を訪れた。

ところが、そこは中世の拷問部屋もかくやと言わんばかりの修羅場だった。苦痛に耐えかねて上がる患者達の悲鳴に、ボールは歯医者を飛び出した。歯医者になろうという気持ちは、吹き飛んでいた。

やがてボールは、時計宝石商として働くことに関心を抱くようになった。そこで、彼は考えた末、時計作りを学ぶために町の時計宝石商、ジョージ・ルーイン(George Lewin)の門を叩いた。

その後、時には時計職人、時にはセールスマンとキャリアを転々としながら、ボールはついにクリーブランドで念願の店を手に入れた。ウェブ C. ボール・カンパニー。目抜き通りの、一等地であった。

ボールの関心事の一つは、正確な時間であった。そこでボールは、当時まだ高価であったクロノメータを初めてクリーブランドに持ち込んだ。クロノメータは店のショーウィンドウに誇らしげに飾られ、道行く人に時を告げていた。

さらに1883年にワシントン天文台の標準時が利用できるようになると、ボールはこの時間をいち早く取り入れた。ボールの店の前を通る人々はそこで自分の時計を合わせるのが習慣となり、やがて「ボールの時間」は、正確な時間の代名詞として北オハイオ一帯で通用するまでになった。

そして1890年6月14日。クリーブランド市が標準時を施行するその日、その時間はまさにボールの手に委ねられていた。

キプトンの悲劇――生死を分けた四分間

1891年4月19日。一本の列車がクリーブランド郊外を走っていた。アコモデーション号であった。アコモデーション号の機関士と車掌には、ある命令が下っていた。この先にある小さな駅、キプトン(Kipton)で郵便急行列車、No.4を通過させるというものだった。当時のアメリカの鉄道は単線がほとんどで、こうしてしばしば対向車を通過させる必要があった。

エリリア(Elyria)の駅を出る時、アコモデーション号に駅の電信係が駆け寄ってきた。対向する列車、No.4の情報を伝えるためだった。

「気を付けろ、No.4は定刻通りだ」

「うるさい、分かっている!」機関士は怒鳴った。

エリリアを出たアコモデーション号で車掌は思った。「やけにゆっくり走っているな」

しかし、機関士は当然のように列車を運転していた。機関士は自分の時計を見て、定刻通りにやってくるNo.4と出会うまでには7分の余裕があると思っていた。だが、その時計は4分遅れていた。

運命の時は、すごそこまで迫っていた。

車掌は列車の速度が気にはなったが、何も言わず、自分の時計で時間を確かめもしなかった。そして、数分後。

全速力で走ってきた郵便急行列車No.4は、キプトン駅に入る為にブレーキをかけ始めたばかりのアコモデーション号に衝突した。

轟音とともに双方の機関車は大破し、双方の機関士は即死。郵便車の発火した木材と潰れた鉄塊の中から、9人の職員が遺体となって発見された。大惨事だった。

ボールの戦い――改革への提言

事故の原因が時計の遅れにあった可能性があることから、レイクショア&ミシガン・サザン鉄道(Lake SHore & M. S. R. R.)は、一人の男に調査を依頼することにした。

男の名はウェブスター・クレイ・ボール。この時ボールは既に、クリーブランドの時間を司る、時計の専門家という評判を確立していた。

ボールは早速調査に取り掛かった。調査対象はレイクショアの全線における「時間と時計」の実態。やがて、ボールの前に、唖然とするような実態の数々が浮かび上がってきた。

彼が調べた「公式」の鉄道時間は、70以上の異なる時間を指し示していた。時間の管理が、あまりにもずさんに行われていた。

駅では、時間合わせを町から聞こえる授業ベルや工場のサイレン、教会の鐘に依存していた。

鉄道員達の持つ時計もひどいものだった。目覚まし時計から、服飾品を買った際に景品として貰えるワンダラーウォッチまでが使われていた。それらは、粗悪品の代名詞だった。

釜の高熱と振動にさらされる機関車の環境に、粗悪な時計。時間が狂うのは、当たり前だった。

「何とかしなければ」ボールは解決策の提言をまとめ始めた。彼にはあるプランがあった。

唯一つの「標準」へ―― 鉄道時計検査システム

正確な時計を使うこと。その性能を保つこと。そして何より、正確な時間に合わせること。

そのために必要なシステムの原案を、ボールは既に持っていた。ペンシルバニア社からクリーブランドおよびピッツバーグ地区の主任時計検査官に任命された時、彼が考案した時計の検査方法だった。高性能な時計のみを使用させ、時計が正確であることを検査した上で標準時に合わせれば、ただ一つを除いて問題は解決する。

残る問題は、時計の価格だった。当時、時計は、鉄道員達が自費で購入するには非常に高価な機械だった。高性能なものなら、なおさらだった。

だが、ここで粗悪品の持ち込みを認めてしまっては、全てが水の泡となる。また、あの悲劇が繰り返される。ボールの心は決まっていた。

レイクショア鉄道総監督、P. P. ライトは、ボールの提言を受け入れた。彼は全鉄道員に対して、次のような回状を発行した。「全鉄道員は、その勤務中、自身の公認された時計か、社の監査官から貸与された標準鉄道時計を使うことが要求される」

さらに回状は、全ての車掌、機関士、および駅係官に対し、即刻彼らの時計を点検するよう命じていた。その責任者、主席監察官に任命されたのが、ボールだった。レイクショア鉄道の鉄道員が持つ二千個を超える時計を検査し、鉄道の安全を確保する。その責任に、身が震えた。

標準鉄道時計―― 「正確な時間」のシンボルへ

ボールの定めた規定により、次の仕様を満たす時計だけが鉄道時計として「公認」された。

  • 16または18サイズ
  • (軸受けの宝石が)17石以上
  • (時計の停止を予防する)ローラー付きテンプ
  • クラブトゥースレバー(アンクル)脱進機
  • ブレゲヒゲゼンマイの採用
  • 温度調整
  • 5姿勢調整

さらに、時計は常に検査され、誤差が1週間で30秒を超えれば直ちに調整が行われた。厳しい制度だったが、やり遂げた。

やがて、その努力は報われた。彼のシステムは鉄道に標準時間をもたらし、その時間管理に精度と統一性を確立した。それは、鉄道員達にとって不可欠の安全装置として、認められた。

Epilogue―― 「鉄道時計」

「正確な時間を知りたければ鉄道員に聞け」

それは、やがてアメリカ人の常識となった。ボールのシステムが他の鉄道会社にも次々と採用されたからだった。ボールのシステムはカナダやメキシコにも取り入れられ、いつしか総延長175,000マイルにおよぶ北アメリカ大陸の鉄道、その75%を覆うまでになった。

「鉄道時計をください」

時計宝石店におけるその言葉は、「最高の性能の時計をください」という言葉の同義語となった。鉄道時計に対する要求仕様は改定を続け、常に時代の先端を走っていた。メーカーはこぞって鉄道時計を製造し、その性能を宣伝した。メーカーにとっても、鉄道時計は正確さのシンボルだった。いつしか、アメリカ時計産業の力は、世界の最高水準に達していた。

1922年3月7日の夜遅く、ウェブ C. ボールはクリーブランドの自宅でこの世を去った。多くの人々がその死を悼み、その功績を称えた。しかし、彼に最も大きな感謝と哀悼を捧げたのは、機関士組合だった。彼らは次のように声明した。

「ウェブ C. ボールは男達の幸福と鉄道時間の標準化に生涯を捧げた。この30年間に成されたあらゆる進歩も、元を辿れば彼の不屈のエネルギーと献身に行き着く。彼は、過去30年間の鉄道労働者に対し、これまでに我々の鉄道に採用されたいかなる安全器具よりも大きなことを成し遂げた。彼はその仕事、すなわち愛の仕事に生涯を捧げたのである」

ボールの遺したシステムは、今日も時を刻み、鉄道の安全を守り続けている……。

(fin)

……とまあ、今回このようなパロディの体裁を取ったのは偶然ではありません。

この記事にはまだ続きがありますので、何か言いたい事がある方も、ひとまずそちらをお待ち下さい(笑)

Here are 3 Comments & 1 Trackbacks

Comments

From :くらーへ : 2006年06月24日 00:23

『ヘッドライト テールライト 旅はまだ終わらない~♪』

ま、冗談は置いておいて(w

ハードじゃなくてソフトの部分も非常に重要というお話ですね。
いや非常に勉強になります。

で、日本ですが明治期に鉄道と時計はセットで導入したんだと思うのですけど、その辺のネタってありますか?

From :PsyonG : 2006年06月24日 02:03

時計単体を云々するだけでなく、組織的に、システマティックに動かす事で目的である組織全体での統一された時間管理を可能とする――いかにもアメリカ的な合理主義ですな。私も調べてて感心することしきり。

さて、日本についててすが、私はあんまり詳しくないんで、すぐに解る分では
「日本の鉄道時計は、精工舎が1929年(昭和 4年)に19型をつくり、鉄道時計として国鉄に採用されたのが最初。7石のもので精度はアメリカのものより幾分落ちたという。背面には鉄道省、鉄道局名、番号が刻まれていた」
という引用くらい。その気になればもうちょっと何とかならんかと思うのですが。セイコーの博物館には何かあるのかな。

From :くらーへ : 2006年06月25日 22:52

脇道質問への回答ありがとうござます。

> セイコーの博物館には何かあるのかな。

セイコーの博物館ですか?
何か面白そうですね。調べてみよう。