流行語に飛びついた末路
「モヒカン族」という言葉が、実は去年の流行語か何かであったらしい。知らんかった。
で、今更ながらにそれを取り上げたニュースサイトの記事が炎上していた(笑)。
そもそもモヒカン族とは何なんだ。流行語と言うくらいだからネイティブ・アメリカンの部族のことではあるまい。一体何の事かと思ってちょっと調べてみたが、大体こんなところのようだ。
つまり、流行語を安易なレッテル付けに使おうとして、根本的なところで滑ったということらしい。これは記事書いた奴が莫迦としか言いようがない。
だいたい、「族」と付いてるところからして既に終わっている。原典とされるエントリーにもない表現だ。そりゃ、元ネタが北斗の拳なんだから「モヒカンの雑魚」で当たり前。「族」と付けるなら牙一族だろ(いや、そういう問題じゃなくて(笑))。「族」だの「系」だの、さしたる考察もなしに安易にレッテルとして利用しようとする思考停止(+勘違い)の典型例といえる。
「モヒカン族」の行動様式がどうとか、それがどういうトラブルに繋がるかははてなダイアリーのまとめを一読して頂ければ解るのでここでは繰り返さない。ただ、それを見る限り、この「モヒカン族」という言葉を巡るあれこれには、無断リンクがどーとか、トラックバック内のリンクがこーとか(並列に書かれる事が多いが、この二つは全く別の側面を持った問題だと個人的には思う)、その辺の「文化摩擦」として片付けられる諸々の根本が垣間見える気がする。
その一例が、「モヒカン族」の対義語が「ムラビト」「ムラ社会」とされていることではないかと思う。
「モヒカン族」的行動様式のもとにツッコミを喰らう様を、モヒカンに嬲られているミスミ爺さんに例えるというのもなかなか黒いジョークだと思うが、現象面だけ見ると間違いではない。その一方で、「モヒカン族」の定義の詳細を追っていくと、わりかしマトモである(少なくとも、一定の根拠と合理性がある)。そこまで進んだところで、その対立概念である「ムラ社会」の行動様式を挙げて行くと……なんとも情緒的かつ根拠にも乏しく、始末に負えない。
つまりこの「モヒカン族」と「ムラビト」の関係自体が二重三重のブラック・ジョークなんだろう私は思う。表面的な現象を戯画的な悪役(しかも雑魚)と被害者になぞらえるジョークでありながら、その対立概念に因循姑息の代名詞とも言える「ムラ」という言葉を織り込んでいる点がそれだ。モヒカンに襲われているはずなのに、概念上の理はモヒカンの側にあるというねじれた関係が見せる逆説のジョーク(理がある側の反対側って非?善の反対のはずの悪が悪くなかったとしたら、悪くないものの反対側って一体?そんな善悪理非の混同や善悪二元論的な思考そのものまでも皮肉ってるんじゃないか、と私は思う)。
そもそも、この「モヒカン族」的な行動原理を突き詰めていけば、そいつはもうただのモヒカンではなくなるはずだ。南斗五車星とかもうちょっと下あたり、例え雑魚でも何らかの筋が通ったものになるのではないか。
最終的に「退けぬか?」『退けぬ』「どうあっても退けぬか?」『元斗のさだめ。退けぬ』あたりまで来れば、これは格好良いということになる。「強敵」と書いて「とも」と呼ぶって奴だ。つまり、モヒカンのようにムラビトを嬲るのは実は「モヒカン族」ではなく、似非「モヒカン族」のチンピラであったのだ!俺の名前を言ってみろ。
相手に対する敬意があって、一本筋が通っているなら、交えるのが拳であっても美しい話にはなり得るということ。行動様式でレッテルを貼って論うような話ではない。
とまあ、このモヒカンという言葉にはいろいろな隠喩が込められていて面白いとは思うのだが、根本的な問題は「モヒカン族」そのものがどうこうという話ではない。もともと原典のエントリが言っているのは「ネットに棲んでるモヒカンというイキモノ」のことではなく、「ネットとは(モヒカンが襲ってくるような)世紀末世界である」ということだ。
この世は荒野だ!唯一野望を実行に移す者のみがこの荒野を制することが出来るのだ!……じゃなくて、荒野において自分を守れるのは自分だけ。自身の腕を磨くもよし、用心棒を雇うもよし、組織や共同体に身をおくもよし。しかしどのような手段にせよ、自らの意思と努力がなければその身は守りえない。
そんな荒野のど真ん中をノコノコ歩いていて、モヒカンに襲われたとただヒステリックに泣き叫ぶムラビトは本当に無実の被害者なのか?そこには、自分の日常感覚だけを唯一絶対のものと信じて疑わないお目出度い「平和ボケ」的感覚、市街戦のド真ん中を渡って嘆きの壁を観光しに行くバカップルとか、戦場の只中に彷徨い出た挙句「自分探しの旅」どころか人生そのものから卒業してしまったりするような例にも共通する無自覚な愚かさがあるように思う。
問うべきはそうした意識の問題であってネタじゃないだろ?と。浮ついたレッテル張りが的外れなだけならまだしも、そうした根本的な問題から人の目を逸れさせかねないという意味では莫迦を通り越して有害ですらあると思った。やれやれ。