2010年になっていた。
キリとか節目とか、そんなものに何の感慨も抱くことなく。
その年は、2009年12月31日23時59分59秒に連なる切れ目ない流れの当然の延長として、だらりと流れ込んで身の回りを満たしたのだった。
…とまあ、怠惰と無気力と厭世観がGメンのテーマに乗って館山基地の滑走路を闊歩してくるような心境で始まった2010年。
2009年の締めくくりもせず、ただ「そこにいた」としか言いようのない休暇も終わり。
まあ鬱病患者の休暇に活発なイベントを要求しても無駄というものだ。
おそろしく程度が低くて不毛な上、続ければ続けるだけ面倒が積み上がるという仕事の内容に絶望したのが直接、全てを放り出して逃げ出しでもしない限り、そこから逃れるのが困難という未来が簡単に予見できるのが間接的な原因だろうが、結果として鬱病発症投薬治療中となっている。まだ薬量の試験中で効果が出る段階に達していないから、年を越しても症状は好転していない。
「軽度の鬱病」というと大したことなさそうに聞こえるが、「重度」というのは「放っておくと自殺の危険がある」とかいうレベルになるので意味合いが違う。仕事場に向かおうとするだけで胃液吐くようなストレス障害だって十分に問題だ。それをねじ伏せて通ってた自分が不思議なくらいだが、生活と銭がかかれば人間そこそこ頑張っちまうものらしい。いよいよ限界が近いという自覚はあるが。
というわけで意欲・気力が根刮ぎになり、やりたいと思ったこともできないままドブ川のように淀んだ時間を垂れ流してしまった2009年の後半に今この瞬間が連なっている。心配と迷惑をかけたところもあって心が痛むが、この脳を叩き直さないとどうにもこうにも。
そんな「俺何やってるんだろ」的な虚脱感で寝正月しながら読んだ「あなたのための物語」が重い。まあ読んで気分が高揚するタイプの本ではないと思うが。
オビで伊藤計劃が引き合いに出されてたが、通じる点よりは相違点の方が多い気もする。「虐殺器官」や「ハーモニー」を読んだ際の第一印象は「解体するなぁ」というものだった。人間を因数分解し尽くすような感覚、あるいは観念を包丁で活け造りにするような感覚を抱きながらそう思った記憶があるが、こちらの印象は大分違った。
静物ではないものをアングルを変え、鏡に映し、その時点、その視点から観察あるいは解釈しようとしているような感覚。人間を「物語」と例える描写があったが、そういう意味では「物語の写生」といった印象を持った。その結論を個人の好悪というところに帰着させていいとしている点まで含めて。
どのスケッチに共感するかは趣味の問題だと思うが、冒頭のような精神状態で読むと「生きるって何じゃい」という疑問を嫌応なく抱くわけで、重い。
ところで、動物の死には本当に尊厳はないんだろうか。死期を悟って群れを離れて墓場に向かう象に尊厳は感じられないのか。本人が尊厳を感じようが感じるまいが、周囲が厳粛に見送ったらそこに尊厳はあるのか。周囲おかまいなしに「笑って死ねりゃ最強だ」と嘯いて、それを実践してのけたらそこに尊厳はあるのか。うーむ。
そんな益体もないことを考えながら、とにもかくにも2010年は始まるのでありました。
Comments
とりあえず新年おめでとうございます。今年は共々新規まき直しの年としたいところですね。
長谷先生の話は全部面白いのでとりあえず読んでみてはいかがかと。円環少女もいいですが初期作の「戦略拠点32098」や「天になき星々の群れ」もグッド。
それはさておき。
人間の主体が関係性のうちに成り立つものである限りにおいて、その尊厳もまた関係性のうちにある、というのがぼくの意見です。で、関係性というのは唯我論から現象学までの広い幅の取り方があるんで、一概にこうとはいえない、と思ったり。結構面白い問題提起だと思います。